コープさっぽろ農業賞

よむ

2019年10月28日

お母さんに見せたかった「景色」

コープさっぽろ農業賞を受賞した生産者さんのサイドストーリー
「おかわり♪ちょこっと コープさっぽろ農業賞」。
第1回目は、ハスカップファーム山口農園のお話です。


(撮影/工藤了)

夢の「畑でレストラン」

2019年7月20日。第10回コープさっぽろ農業賞「農業大賞 北海道知事賞」を受賞したハスカップファーム山口農園を会場に、1日限りのレストラン「畑でレストラン」が開催されました。
この日は苫小牧や札幌から40名を超えるゲストが参加。Ricci cucina ITALIANA(札幌市)の川﨑律司シェフが手がけるハスカップを使った創作コース料理を楽しみました。

ハスカップ畑の前に1日限りのレストランが出現しました

実は、園主・山口善紀さんが農業賞に応募した理由の一つが「『畑でレストラン』をここでやりたかったから」なのだそう。
「母に見せたかったんです。母が大事に育ててきたハスカップが、たくさんの人を喜ばせている光景を一度でいいから見てもらいたかった」と山口さんは言います。

それを聞いてアレ?と思いました。山口農園は移動販売車で道内各地をめぐり、オリジナルハスカップスイーツを販売しています。収穫最盛期には農園を開放してハスカップ狩りも行っています。お客さんが喜んでいる姿を見るチャンスはいくらでもあったはずです。

「それが…母は人前に出るのが苦手なんです。ハスカップ狩りをやっていても一切見に来ないで作業をしています。だから、お客さんの声や喜んでいる顔を直接見る機会がほとんどなかったんです。
今回、コープさっぽろさんから声をかけてもらってうちで『畑でレストラン』をやることになり、母に『お客さんの一人として参加するかい?』と聞いたとき、最初は断りそうな雰囲気でした。でも、開催日を伝えたら表情が変わりました。実はこの日(7月20日)は偶然にも母の誕生日だったんです。『そういう誕生日もいいかもね』って」。
その瞬間の、山口さんのシテヤッタリの表情が目に浮かぶようです


ハスカップ狩りのお客さんを案内する山口さん

苦手なハスカップを、おいしくしたい。

ここでちょっと山口農園の歴史を振り返ってみることにしましょう。
山口農園は1899年、今から120年前に開園しました。初代は淡路島の出身で、山口さんは5代目にあたります。
現在はハスカップ栽培一本ですが、山口さんのお父さんの代までは稲作がメインでした(ちなみに厚真町は胆振地区を代表する米どころとして有名です)。

ハスカップの栽培は、昭和53(1978)年に山口さんのお母さん・美紀子(みきこ)さんと祖父の佐久間勇(いさみ)さん、しげ子さんが勇払原野から野生のハスカップを移植したことから始まりました。苫東地区の大開発が決まり、勇払原野のハスカップ群生地が潰されてしまうという危機感からでした。

かつて勇払原野はハスカップの一大群生地でした
(撮影/細野美智恵)

ところが、美紀子さんはハスカップが大キライ。もともと酸っぱいものが苦手で、梅干しすら敬遠したいほど。野生のハスカップとなれば、渋いもの、苦いもの、酸っぱいものが大半で、ごくまれに甘酸っぱい実があるぐらいです。
「こんなにマズくちゃ、そのうち需要はなくなる。おいしいハスカップだけを育てたい」と思った美紀子さん。だったらマズい株は捨ててしまえと、当時小学生だった山口さんと弟にミッションを与えます。
「畑を回って苦い木に印をつけておいで。見つけたら100円あげる!」
山口兄弟がお小遣いほしさに味見役を買って出たことはいうまでもありません。

苦いハスカップの株を見つけては抜き、見つけては抜き。すると、近所の人から「捨てるぐらいなら、その木をちょうだい」と頼まれます。しかし美紀子さんは「こんな苦い木、育てたってしょうがない」と頑なに拒否。抜いた株はすべて燃やしてしまいました。
それを見た近所の人からは「ハスカップなんて、もともと苦くて酸っぱいものだべ。あんた何を言ってるンだ」と、変わりもの扱いされたそう。

「それからなんです。母が人嫌いになったのは」。


農業をやりたい。

「農業は継ぐな」といわれて育った山口さんは、20歳で王子製紙の研究施設である王子製紙森林資源研究所に就職します。その頃には、美紀子さんは農協から「おつかいもの」用ハスカップの指名が入るほど、町内でも有数のハスカップ栽培農家になっていました。
「植物の育種を研究するようになって改めて気づきました。母がハスカップに対してやっていたことは『選抜育種』という素晴らしい技術だったんです。ただひたすら『おいしいハスカップを作りたい』という一心で長い年月をかけて努力をしてきた。それが実を結んだんですね」。

ところが、家族を不幸が襲います。稲作に勤しんできたお父さんが体を壊し、入退院を繰り返すようになってしまいました。山口さんは仕事の傍ら実家の農作業を手伝い、あげく、10年間勤めた王子製紙を退職します。けれどもお父さんの体は良くなることはなく、永遠の別れをすることになります。

「父は先祖からの借金を返すために一生懸命働きました。やっと借金を返し終わってこれからというときに、楽しむ間もなくこの世を去りました。母が言うんです。『なんのためにがんばってきたんだろうね』って。そのとき僕は、息子として、なんて答えたらいいのか分かりませんでした……」。

雨の中、ハスカップを摘む山口美紀子さん
(撮影/細野美智恵)

同じ頃、山口さんの心に変化をもたらすできごとがありました。
2004年、テレビ番組が火付け役となり、ハスカップブームが起こります。この機を捉えようと山口農園でもハスカップ狩り体験を実施し、山口さんが案内役を担当しました。
「たくさんのお客さんが来てくれました。みんな笑顔で、みんな喜んでハスカップを食べていました。『ありがとう』、わざわざ声をかけてくださるお客さんもいました。僕は子どもの頃から農協に出荷するところしか見ていなかったから、うちでとれたものをこんなふうに食べて喜ぶお客さんの姿を初めて見て感動しました。農業って、こんなにやりがいのある仕事だったんだ。これならやってみたい、そう思ったんです」。

2005年、山口さんは就農。生前お父さんから米づくりを教わることはかなわなかったので、ハスカップ栽培一本に絞りました。
「そのときに決意しました。日本一の製紙会社を辞めたからには『日本一のハスカップ農家』になろう。そのためにはまず厚真町を日本一のハスカップ産地にしよう」。

ここからの努力や苦労については、『Cho-co-tto』の本編に譲り、ここでは詳しく書きません。結果だけをいえば、山口さんは就農から9年でこの誓いを現実のものにします。
2013年、厚真町はハスカップの栽培面積で日本一の産地となったのです。


ハッピーバースデー!

「厚真町が『ハスカップ日本一のまち』になったのは、町内約100軒のハスカップ農家一人ひとりの努力のたまものです。でも、母がいなければ、厚真産ハスカップのブランドを支える品種『あつまみらい』がこの世に生まれることはなかったでしょう。母がいなかったら、もしかすると厚真町が『ハスカップ日本一のまち』になることはなかったかもしれません」。

山口さんは「畑でレストラン」のお客さんを前に語りました。

「今日、僕の夢が二つかないました。一つは『畑でレストラン』を自分の農園で開催すること。これは、農業賞に応募するときからの夢でした。本日、それがかないました。ありがとうございます。そして、もう一つの夢……」。
山口さんはゆっくりと目の前に座る美紀子さんに視線を移します。

「実は、母は人前に出ることが苦手で、うちのハスカップがどれだけたくさんの人を喜ばせているのかを知りません。その母が今日ここに参加し、みなさんが喜んでくださっている姿を見ています。僕は、そのことが本当にうれしい。母にこの光景を見せたいという夢がようやくかないました。ありがとうございます」。
山口さんはそう言うと、キッチンカーの裏に隠れていた川﨑シェフに目配せしました。

「その母が、本日、71歳の誕生日を迎えました!」

山口さんの声を合図に、シェフが大きなケーキを持って登場しました。会場からどよめきが起こります。シェフからのサプライズプレゼントです。
美紀子さんは立ち上がり、恥ずかしそうに何度も頭を下げました。

バースデーケーキを用意してくれた川﨑シェフ

サプライズはこれだけではありませんでした。
美紀子さんの前に、会場にはいなかったはずのお孫さんが花束を持って現れたのです。山口さんの弟夫婦、妹夫婦もいます。
美紀子さんが感極まった様子で花束を受け取ると、会場は割れんばかりの拍手に包まれました。

お孫さんから美紀子さんへ花束の贈呈。山口さん夫婦が見つめます

この日の「畑でレストラン」は、美紀子さんにとって忘れられない誕生日となったことでしょう。そして、山口さんにとっても。

山口さんは長年の「宿題」に対する答えを見つけました。
お父さんががんばって借金を返して築いた山口農園の基盤。お母さんが大切に育てあげたハスカップ。いま自分はその二つを受け継ぎ、こうして目の前にいるお客さま、さらに目には見えないもっともっとたくさんの人たちを喜ばせることができているのだ、と。
だからもう、胸を張って言えます。お父さん、お母さんへの感謝の言葉を。

取材・文/長谷川圭介
撮影/工藤了、細野美智恵、長谷川圭介


山口さんとチーム「Ricci cucina ITALIANA」のみなさん

この記事をシェアする

おすすめ記事

TOPへ戻る