第10回 『ハチ屋』ライフ(菅野養蜂場)

広報誌『ちょこっと』のシリーズ企画「農家の食卓」。
7月号では、第8回農業賞で交流賞部門札幌市長賞を受賞したオホーツク訓子府町の菅野養蜂場におじゃましました。
迎えてくれたのは三代目・菅野富二さんと奥さまの菊枝さん。
聞けば菊枝さん、東京・浅草のご出身とのこと。
東京の下町からどうして訓子府町へ?
プライベートに踏み込むのもどうかと思うけど…、気になりますよね?

取材・文/長谷川圭介
撮影/工藤了

東京・下町から「ハチ屋」のお嫁さんへ

ご実家は履物問屋。8人きょうだいの7番目として生まれた菊枝さんは、持ち前のがんばりで管理栄養士の国家資格を得て、産業給食の仕事に就きます。
「すっごく忙しかった。朝早く家を出て、帰るのは夜暗くなってから。通勤途中のショーウインドーで季節を感じるぐらいで、栄養の仕事に携わっているのに、とてもじゃないけど人間らしい暮らしからはほど遠かった」と菊枝さんは振り返ります。
そんな生活にも限界を感じ始めていた頃、兄の知り合いが大きなトラックでふらっと実家を訪ねてきました。それが、のちの夫となる菅野富二さんでした。

移動養蜂(転地養蜂)は季節の花を追いかけてミツバチとともにトラックで移動する伝統の技術です。春は本州、夏は北上して北海道で採蜜を行い、冬を前に本州へ渡って次の春を待ちます。
富二さんはこのとき、ミツバチを越冬させるための運搬作業を終え、陸路で北海道へ戻る途中。「どうせ帰るだけだし、たまには東京見物もいいかな」と、養蜂の弟弟子にあたる知り合いを思い出したのでした。
東名高速の海老名サービスエリアで電話をすると、突然にもかかわらず二つ返事で快諾。
東京に着いた富二さんを出迎えてくれたのが菊枝さんでした。

「食べものに関する仕事をしていたし、休日には生産現場へ足を運んで見に行くぐらい生産者の仕事に憧れを抱いていました。兄は一時期養蜂の修業をしていましたが、私にとっては縁遠い世界。一体どんな方なんだろう?って、純粋に興味があったんです」と菊枝さん。

「その日はたしか仲見世を案内してもらったんじゃないかな。それで翌日には北海道に帰るんだけれども、それからときどきメロンやはちみつを贈るようになってね。一目惚れ? まあ、そういうことになるのかな」と富二さんは笑います。

さて、菊枝さん。じつはそれまではちみつはどちらかというと苦手な部類。ところが、富二さんのはちみつを一口食べて衝撃を受けました。「忘れもしません、れんげ蜜です。大げさじゃなく一口ではちみつの概念がガラッと変わりました」。

このはちみつが功を奏したのか(?)、二人は長距離恋愛を実らせ、出会ってから4年後の昭和58(1983)年に結婚。一男一女を授かりました。

商人の娘、面目躍如

春から秋にかけては訓子府町に、冬から次の春までは本州へ。ミツバチとともに旅暮らしをしていた菅野さん一家ですが、長女の小学校入学を機に、菊枝さんと二人の子は訓子府町に根を張ることになりました。
夏はこれまで通り採蜜作業を手伝い、冬の間は富二さんとミツバチのいない訓子府で留守を守るという新しい生活。文字通り、腰を落ち着かせて子育てに専念できる状況を手に入れました。ところが菊枝さんはヒマというものが大っ嫌い。農協の若妻会に入ってネットワークを広げ、時間を見つけては近隣農家へ手伝いに出たり、管理栄養士の資格を生かして健康教室を請け負ったり。農協の若妻会では会長も務めました。
「結婚して訓子府に来た当初は、やっぱり『東京から来たお嫁さんでしょ』っていう目で見られていたと思います。だからできるだけいろんなところに顔を出そうと思って」と菊枝さんは振り返ります。

そうして訓子府での生活が落ち着き始めた頃、菊枝さんは業界ではまだ珍しかったはちみつの個人販売に挑戦します。

従来はちみつは、採蜜したその地域の問屋に卸すのがならわし。養蜂家は採ったはちみつを問屋へ持ち込み、問屋は集荷したはちみつを混ぜ合わせて販売事業者に卸します。
市場は、はちみつの「質」よりも「価格」が重視される時代。国産はちみつは、当然ながら輸入はちみつとの価格競争にさらされました。特に日中国交正常化(1972年)以降は中国から低価格のはちみつが大量に入るようになり、養蜂家が苦労して採蜜したはちみつも安く買い叩かれる状況が長く続いていました。
汗水流して採ったはちみつが二束三文で買い取られ、しかも誰のものともわからない蜜と一緒くたにされる。そうした業界の「あたりまえ」に、富二さんは忸怩(じくじ)たる思いを抱きながらも、仕方がないこととあきらめていました。

富二さんのそうした思いを知っていた菊枝さんにとって、問屋を通さない個人販売は長く温めてきた夢でもありました。とはいえ、ゼロから販路を開拓するのは楽ではありません。子育ての傍ら、車にいつもはちみつを積み込んで、食品卸の会社に飛び込みで営業をしました。当時は、はちみつに関する情報も広く知れ渡ってなく、「国産」で、添加物を一切加えない「天然」の、巣箱の中でしっかりと熟成させた「本物」のはちみつの価値を伝えるところからのスタートでした。

「私と違って商いに長けているんです」と富二さん。「やっぱり商売人の娘なんでしょうね」。

そんな妻のがんばりに、富二さんは職人として応えます。みつばちの病気を防ぐために必要不可欠と思われていた薬の使用を一切やめたのです。薬を使わずにみつばちの健康状態を維持するには、病気のみつばちをできるだけ早く見つけて巣全体に病気が広がらないようにケアする必要があります。点検作業には手間も時間もかかり、生産効率は大きく下がりますが、「量」よりも「質」を追究するという職人としての覚悟の表れでした。

二人の努力は少しずつ周囲に認められ、販路は確実に広がっていきました。
評判が評判を呼び、2001年に雑誌『暮しの手帖』に取り上げられると、全国から注文が殺到するようになりました。

養蜂学習で地域貢献

菊枝さんは営業の傍ら地域活動にも積極的に関与します。
1995年、農協の推薦を受けて訓子府町の教育委員会の委員に就任。それから3期12年。現役子育て世代の教育委員として、母親目線、保護者の目線で、町の教育問題に取り組みました。
学校の先生方や子どもたちと接するうちに見えてきたのは食生活の乱れでした。
「すぐ目の前の畑で新鮮でおいしい食材を生産しているのに、どうして?」。
自らも食の生産者であると同時に、管理栄養士としての使命感もあったのでしょう。その思いは菅野さん夫婦をさらなる地域活動に突き動かします。それが養蜂学習でした。

「本格的に取り組んだのは2000年からです。『総合的な学習の時間』が始まり、地域の小学6年生を対象にじっくりと時間をかけて養蜂学習をやることになりました。最近の子どもたちは自分で釘を打つこともなかなかないので、まずは自分たちの手で巣箱を作るところから始めました。それから実際にみつばちを半年間ぐらい預けて、管理や採蜜を体験してもらいます。はちみつが採れたら、今度は調理実習をします。図工、家庭科、理科、社会。いろんな要素を含んだ学習です。そして、1年の締めくくりとして最後に発表をするんです。今は児童数が減り、5・6年生の合同授業になったので2年に1度のペースになりましたが、それまでは毎年ずっと行ってきたんですよ。
自然と関わりを持つという仕事がどんな生き方なのか、伝えたかったんです。願わくば10年後、15年後に、そうした仕事を選ぶ一つのきっかけになったらいいなって」。

菅野さんの蜂場におじゃますると、かわいらしいイラストの描かれた巣箱が目にとまります。そう、これが歴代の子どもたちが手がけてきた思い出の巣箱です。地域との絆を育んできたこの巣箱こそ、菅野さん夫婦にとってかけがえのない宝物です。

3年前には息子の裕隆さんが、札幌での仕事に区切りを付けて帰ってきました。
「正直にいうと、昔は家の仕事をするつもりはなかったんです。それで、大学を卒業して研究職の仕事に就きました。一日中こもりっぱなしの仕事で、季節を感じられるのは通勤の間だけ。街路樹のアカシアを見ては『そろそろアカシアが始まるなぁ』とか、菩提樹を見ては『忙しくしてるんだろうなぁ』って、ふと考えている自分に気づきました。案外、ハチ屋の仕事が好きだったのかも。そっちの方が人間らしい生き方なんじゃないかって。それで」。

1年前には裕隆さんが結婚。お嫁さん(実里さん)が加わって、4人のチームになりました。

裕隆さんはインターネットを活用した販売に力を入れるなど、伝統養蜂を学びながら、新しい営業スタイルに挑戦しています。
菊枝さんは実里さんと一緒に、直売店に立つことが多くなりました。ミツロウを使った石けんやハンドクリーム作りのワークショップを企画するなど、はちみちの魅力発信にいっそう力を注いでいます。
そして、富二さんは……。もちろん、今日もミツバチと格闘しているはずです。

Kanno Honey Farm

訓子府町仲町34
営業時間/9:00〜18:00(不定休)

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